津城

別称:安濃津城  三重県津市

【歴史】

長野氏時代~信長の伊勢侵攻

永禄年間に、現在の津地域を治める長野氏(長野工藤氏)の14代当主長野稙藤の子、細野藤光が分家である細野家を継ぎ、藤光または藤光の子、藤敦が小規模な城を築いた事が起源とされる。

 

永禄10年(1567)織田信長の命で滝川一益が北勢へ侵攻開始。

北勢四十八家を攻略。

永禄11年(1568)には長野氏や鈴鹿の神戸氏が降る形で和睦。長野氏には弟の織田信包を、神戸氏には三男の信孝を当主として送り込む。

信包は長野氏の養子となる形で、まず伊勢国上野城(津市河芸町)に居城。当時、上野城を治めていた細野藤光の次男、分部光嘉(藤敦の弟)を普請役とし上野城の整備を進めると同時に、安濃津城も本格的な城へと改修を進める。(分部光嘉は織田家よりの姿勢を取り、長野氏と織田家の和睦のため画策したと言われる。)

永禄12年(1569)には織田家に復帰した信包が安濃津城(津城)に入城。堀、石垣、本丸、二の丸、三の丸などを整備。天正8年(1580)頃までには五層の天守を完成させたとされる。

 

天正元年(1573)に浅井長政が信長に敗れた折には、長政の妻の市(信長、信包の妹)や、その子、茶々、初、江の3姉妹を本能寺の変(天正10年(1582))まで伊勢国上野城や津城で信包が預かっていたという話もある

(市や三姉妹は、実際には信長の叔父にあたる織田信次の守山城で過ごしたされるが、上野城にも数年に渡り滞在していたとも。)

 

本能寺の変以後~

天正18年(1590)尾張・北伊勢地域を治めていた信長の次男、織田信雄が秀吉によって改易、流罪となる。

信包は、信雄の元に身を寄せていた土田御前(信長、信包の実母)を津城へ招く。

土田(ドタ)御前は文禄3年(1594)に津城で死去。

津市にある四天王寺に墓がある。

(横には高虎の正室、久芳院(キュウホウイン)の墓もある)

四天王寺 三重県津市栄町1丁目892
四天王寺 三重県津市栄町1丁目892
土田御前の墓
土田御前の墓
高虎の正室、久芳院(きゅうほういん)の墓
高虎の正室、久芳院(きゅうほういん)の墓

 

信包は本能寺以後は秀吉にくみしていたが、文禄3年(1594)秀吉の命で丹波へ改易。代わりに、本能寺の変以降、秀吉に仕えていた側近の富田一白が城主として入城(一白(知信)は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後、織田信雄との和議の勅使となった功績で名馬星崎を拝領し、与えられた官位から富田左近とも呼ばれる。)

慶長4年(1599)一白、死去。息子の信高が後を継ぐ。

 

安濃津城の戦い

1600年一白の子、富田信高は家康の上杉征伐に従軍していたが、西軍決起の報を受け東軍に付く事を決める。ともに従軍していた伊勢上野城主の分部光嘉、松坂城主の古田重勝と共に急遽帰国し西軍に備える。

(父・一白が石田三成とは不仲だったとされる。)

(帰国途中、伊勢湾を船で渡る際に、西軍である九鬼嘉隆に見つかるが、嘉隆と顔見知りだった信高が「西軍に付く」等、言いくるめて津城に帰ることに成功。)(信高は間に合わず、安濃津城の戦いの時には津城に居なかったとする資料もある。)

 

伊賀方面から三重に迫る西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長曾我部盛親らが率いる3万の大軍勢。

分部光嘉は自力での防衛は難しいと判断して上野城を放棄。津城の信高に合流。さらに松坂城の古田重勝からの援軍も合流し、合わせて1700兵ほどで津城に籠城。

信高と妻
信高と妻

1600年10月1日、関ケ原の前哨戦の一つである安濃津城の戦いが始まる。信高たちは奮戦するも多勢に無勢。3日間の籠城の後、降伏し開城。城や城下町も焼けてかなりの被害を受ける。

(分部光嘉は毛利家家臣の宍戸元継と一騎打ちをして互いに重傷を負う。信高自身も戦場に出るが、敵に囲まれ危機一髪の所を美しい武者に助けられた。その武者は実は信高の妻だったという逸話が残る。)

富田信高、分部光嘉は一身田の専修寺へと退き高野山へと下ったが、関ケ原で東軍が勝利すると安濃津城での奮戦を家康に認められて、加増の上、旧領を安堵される。

関ケ原後、藤堂高虎

慶長13年(1608)富田信高は伊予宇和島城へと移され、伊予今治城より 藤堂高虎が入城。西軍(豊臣方)の反旗に備えるため慶長16年(1611)から津城、城下町の大修築に取り掛かる。

海沿い(現在の津球場の方)にあった伊勢街道を津城の傍へ変更し、城と城下町をセットで再興させる。

以後、明治まで12代に渡り藤堂家が津藩の藩主を務める。

藤堂高虎と、正室の久芳院の肖像(四天王寺蔵)
藤堂高虎と、正室の久芳院の肖像(四天王寺蔵)

【城郭】

(堀、石垣)

北を安濃川、南を岩田川、東を伊勢湾に囲まれた輪郭式の平城。

高虎時代(慶長時代)を忍ばせるものは、本丸北側と西側の石垣や内堀。

外堀は全て埋められ、内堀も北側と西側に一部を残すのみ。内堀の幅も半分程度となっている。

現在の市役所、津地裁、津中央郵便局、センターパレスが二の丸(内堀と外堀の間)に位置し、外堀がその外側を囲んでいた。

外堀を安濃川と岩田川に繋げて、総構えのようにする計画だったが、慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したためその計画は中止となる。

(古地図を見ると、岩田川とは繋がっているように見える。)

 

(天守)

信包が本丸南西に建てた5層の天守は安濃津城の戦いで損傷。その後、富田氏が3層の天守として再建したよう。

その後、寛文2年(1662)の大火で焼失。以後、再建されなかった。

(天守台には高虎時代よりも古い時代の石垣が残る。)

 

(三重櫓)

東側に建つ三重模擬櫓は昭和33年に観光目的に建てられたもので、位置も形も当時とは異なる。現在の場所から北に20メートル程の本丸北東の角に建っていた丑寅三重櫓を模したもの。当時、国道23号線から見やすいとの理由で現在の位置に建てられた。

平成18年(2006)老朽化に伴い模擬櫓の内外装をリニューアル。

内部公開はしていなかったが、令和4年(2022)10月8日の津祭りに際して、資料の展示など内部を整備して予約者に公開。拙子も参加してガイドの方の説明も聞くことができ、大変有意義だった。

 

現在、丑寅三重櫓を本来の場所に再建し、さらに本丸北西の戌亥三重櫓も再建して多門櫓で繋ぐ案があり、ふるさと納税などで資金を調達中とのこと。(目標6億円。現状1千5百万くらいらしい。外観のわかる明治時代の古写真、設計図面は残っており、あとはお金とのこと)

 

(入徳門)

文政3年(1820)十代藩主の時に東側の二の丸(現在の津警察署と23号線の間)に設置された津藩の藩校「有造館」の正門である入徳門が現在の西の丸内に残る。

戦災を、免れた唯一の城郭関連建造物として現在の位置に移築されている。(市指定文化財)