高岡城
伊勢高岡城 鈴鹿市高岡町
【歴史】
築城時期は不明だが神戸城の北3キロほどに位置し、神戸城の北を守る支城として機能していた。
天文年間(1550年頃)神戸家4代神戸具盛が神戸家の拠点を沢城から神戸城へ移した。具盛は娘を高岡城主の山路紀伊守に嫁がせているので、この頃にはすでに高岡城も築城されていたよう。(神戸城と同時期くらいに築城されたか、それ以前より山路氏の居城としてあったか。)
信長の伊勢侵攻
永禄10年(1567)織田信長が滝川一益を先鋒とし北勢へ侵攻開始。
北勢四十八家を攻略。
神戸にも迫り、高岡城が攻撃されるが、神戸家家臣山路弾正が応戦し激しく抵抗。弾正は鈴鹿市平田の豪族を通じ、美濃の反織田勢力(西美濃三人衆:安藤守就、安藤良通、氏家直元)と接触。
織田への反旗を促したり、その噂を流すなどして織田勢の背後を脅かすことで織田軍を撤退させることに成功。
翌永禄11年(1568)、再び織田軍が伊勢侵攻を開始。高岡城が再度包囲される。弾正は織田軍の攻撃に持ちこたえ落城しなかったが、神戸家7代神戸具盛(祖父の4代具盛の同名のため友盛とも。)は、信長の3男信孝(当時10歳)を神戸家の養嗣子として受け入れることを条件に和睦。
具盛は関盛信の子、関一利も養子にするなど、信孝をけん制するような動きを見せたため隠居状態に追いやられ、元亀2年(1571)、近江日野城に追放される。
元亀2年(1571)信孝が神戸家の家督を継ぎ、神戸家8代神戸信孝となる。(後に織田家に復帰)
具盛の追放、信孝の家督相続に異を唱えた弾正は謀反の疑いで自害に追い込まれ、120以上の家臣が追放されたという。
(神戸家の家臣で平野城主の伊東茂右衛門らと高岡城で謀反を企てるも討ち取られたよう。)
弾正亡きあとには、信孝の異父兄弟にあたる田中兵部少輔が高岡城に入る。
(異父兄弟なので、信孝と田中兵部の母は坂氏。息子の信孝が神戸に入ると坂氏も同行。もう1人の息子である田中兵部も家臣として同行していた。)
本能寺以降
天正10年(1582)本能寺の変後の、清須会議で信孝は岐阜城へ移る。
神戸城は高岡城にいた小島兵部少輔が預かることに。
この際に高岡城は廃城となったか。
本能寺後、「秀吉・信雄」と「勝家・信孝」が対立。
天正11年(1583)反秀吉の滝川一益、次いで柴田勝家が挙兵。これに応じて信孝も岐阜で挙兵。
賤ヶ岳の戦いで頼りの勝家を失った信孝は信雄軍に岐阜城を包囲され降伏、開城。落ちのびた知多の地で自刃。享年26歳。
神戸城も信雄の部下、林与五郎に攻められ開城。
小島兵部少輔はこの時に打ち取られたとも。
【城郭】
鈴鹿川の北岸の標高50m(比高25m)の丘陵に築かれた山城。
(神戸城の北の守りを担うために築城されたのなら、鈴鹿川の南岸に作りたい気もするが、丘陵のある北岸が選ばれたか)
川沿いに東西に延びた丘。西側は宅地開発のため、相応に削られていると思われる。東側は南北に尾根が分かれ、南尾根が公園として整備されている。眺望が素晴らしく、3キロほど南の神戸城、東には伊勢湾を望む。
堀切とおぼしき遺構(空濠という表示がある)が残るが、そのすぐ西側にも堀跡のような遺構あり。
樹畑への改編が進み、その他目立った遺構は見当たらないが、北尾根には小規模古墳群を利用した小さな郭が連なっているよう。
南公園までは車で行けるが、道がかなり狭い。