八太城(はた)

 三重県津市

【歴史】

永禄年間(1558~1570)に北畠家の家臣の田上玄蕃頭(たうえ?たがみ? げんばのかみ 田上讃岐守とも)によって築かれたと伝わる。

 

天正4年(1576)三瀬の変で北畠家が滅亡。

玄蕃頭は秀吉に仕えることとなり、織田信雄日置大善(ひおき・だいぜん、「へき」は誤り。最後に「亮」を付けて「ひおきだいぜんのすけ」とも)に八太城を任せる。

(北畠家家臣だった大善は織田軍の伊勢侵攻に対して築城された保曽久美城(後の松ヶ島城)を任され、その後、大河内城の戦いにも参戦していたが、北畠家が織田の支配下に入り、織田信雄(茶筅丸)を受け入れて以後は信雄の家臣となっていた。三瀬の変においても田丸城にて北畠一門や家臣の暗殺を実行。)

※名古屋に本部を置く(株)札幌かに本家の会長である日置達郎氏は津市美杉(北畠家の本拠地だった)の出身で日置大善の子孫とのこと。氏の読みはヒオキタツオである。

 

天正6~7年(1578~79)第一次天正伊賀の乱では大膳は信雄軍の一員として参戦するも信雄軍は大敗。

 

本能寺以後~小牧・長久手の戦い

天正10年(1582)本能寺の変の後、一旦は協調関係にあった信雄と秀吉との間で緊張関係が続き、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが始まる。

信雄支配下の伊勢の各地は、秀吉の命により滝川一益、蒲生氏郷らの攻撃を受けることとなる。

 

・松ヶ島城

信雄の家老、滝川雄利が城主となり、日置大善らと守りを固めるも豊臣秀長を総大将とした2万とも言われる秀吉軍に包囲され、40日ほどの籠城の後、天正12年(1584)4月、屈して開城。

その後は秀吉配下の蒲生氏郷が松ヶ島城主となる。

 

・戸木城

信雄家臣の木造長政が戸木城に籠城。蒲生軍が四方に付城を築いて包囲。(天正12年(1584)5~11月、戸木城籠城戦)

 

・八太城は蒲生勢配下の生駒弥五左衛門が戸木城攻めの拠点の一つとする。

(戸木城籠城戦では日置勢が戸木城攻めに加わっている資料もある。松ヶ島が落とされた後、大善は秀吉側に寝返った?松ヶ島城陥落以後の大善の動向は定かでなく、尾張に落ちのびた後、家康に仕えたとも・・・)

 

【城郭】

籠城戦の舞台となった戸木城の3キロほど南の標高70mほどの山上に築かれている。すぐ北には雲出川へと流れ込む支流、波瀬川が流れる。街道を見下ろす要所にあり、東に初瀬街道(はせかいどう)、名松線を望む。

登場口は山の南端に建つ鳥居。主郭に近い山の北側にある水道施設の脇からも登城可能。

城域のあちこちに石仏や祠が建てられている。

主郭はかなり広く、西側に土塁と堀が残る。

 

(雲出川の治水)

古来より氾濫や干害が問題となっていた。

津藩2代藩主、藤堂高次の時代、流域が干ばつに苦しむ中、田上玄蕃頭の子孫で、八太宿の大庄屋となっていた田上八太夫が周辺地域の庄屋たちとともに藩に水路建設を直訴。

これを受け、一志郡の奉行だった山中為綱が水路建設を決断。

自ら水路を調査し、工法を研究。

正保2年(1645)新たな取水口、高野井(たかのゆ)を設け、下流域への水路開削にかかる。

9年に及ぶ工事を経て全長2.7キロに及ぶ水路が完成し、高野村、八太村はじめ8つの村の509haの水田に水が供給された。為綱の没後、その偉業が讃えられ、堰守神社(いもり)に祀られた。

 

高野井は大正時代にコンクリート化改修が始まり、現在も津市一志高野にコンクリート製の取水口が設けられている。その近くには堰守神社跡碑(明治に近くの高野神社に合祀された)と、高野井が完成した承応2年(1653)の年号が刻まれた唐戸石が残る。

 

また為綱は伊勢国における最古の地誌となる「勢陽雑記」を記し、三重の歴史、風土を知るうえで重要な資料となっている。

 

時を経て、文化5年(1808)に伊能忠敬が八太宿の田上家に宿泊してる。

(年号からすると、忠敬の第6次測量(四国測量)の帰路で寄った際と思われる。)