亀山城(伊勢亀山城)
三重県亀山市
【歴史】
関氏
記録では、鎌倉時代前期の文永2年(1265)、伊勢平氏の流れをくむ関氏の初代となった関実忠(さねただ)が亀山市若山(亀山神社と池(しょうぶ園)を挟んだ北側)に築塁。(現在の場所(本丸町)の亀山城址と区別して亀山古城と呼ばれる。)
その後も関氏が16代に渡り治める中で、現在の場所へ移される。
信長の伊勢侵攻
永禄10~12年(1567~69)織田信長が滝川一益を先鋒とし伊勢へ侵攻。
亀山城も度々戦場になったよう。
当時の城主関盛信は、北伊勢四十八家、津の長野氏、同族である鈴鹿の神戸氏など周囲が次々と降る中で、最後まで抗戦していたが抗いきれず降伏。
盛信は、信長が神戸氏の当主として送り込んだ三男、織田信孝(神戸信孝)の支配下に置かれるが、信孝との不仲もあり天正元年(1573)に信長により追放処分とされ近江日野城へ軟禁される。
本能寺の変以降
天正8年(1580)本能寺の変。信長死亡。
以後、盛信は秀吉に仕えることに。
天正10年(1582)亀山城に戻ることを許される。
天正11年(1583)賤ケ岳の戦いに先立って、柴田勝家側に付いた滝川一益が、調略により亀山城、峰城、関城などを奪うが、その後すぐに秀吉軍により奪い返される。
盛信から家督を譲られた息子の関一政が秀吉の命で亀山城主となり、蒲生氏郷の与力となる。一政はその後、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも参加。
天正18年(1590)主である蒲生氏郷が秀吉の奥州仕置で会津に大領を得たことに伴い、一政にも福島の白河小峰城が与えられ移る。
天正18年(1590)関一政に変わり、秀吉に仕えていた岡本良勝が城主に。新城を築城、天守、本丸、二の丸、三の丸などを整備。これが現在の亀山城跡にあたる。
(岡本良勝は、神戸家を継いだ信長の三男、織田信孝(神戸信孝)に仕えていたが、天正11年(1583)に秀吉と対立した信孝が自害に追い込まれ、その後は秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵にも従軍。)
関ケ原~大阪の陣
岡本良勝は関ケ原では西軍に与す。亀山城は嫡男や甥にまかせ、自身は、かつて信孝に仕え西軍に与していた氏家行広が城主を務める桑名城に入城。
西軍が敗れ、桑名城は明け渡すが、切腹を命じられら自刃。亀山城を任せていた嫡男も自刃。
慶長5年(1600)、関ケ原で西軍から東軍へと寝がえり功績を上げていた関一政が、関氏の故郷である亀山城への復帰が認められる。
慶長15年(1610)一政は鳥取の黒坂城へ加増(2万→5万)されて移封。
一政はその後も二度の大阪の陣で活躍を見せる。
その後は、松平忠明が城主となり、二度の大阪の陣に出陣してる。
江戸時代
大阪夏の陣後、松平忠明が摂津大阪に移って以降は城主が度々代わっていく。
江戸時代初期には幕府の宿所としての役割があり、大阪の陣や上洛の際に、家康や家光が本丸に宿泊している。
(1634年上洛の際に家光が宿泊する。前年に幕府が将軍宿所として整備工事を行った際の図面が残っている。)
本丸を将軍家宿所としたためか、城主は二の丸(二の丸御殿)に住むようになった。
寛永9年(1632)堀尾忠晴が幕府より丹波亀山城解体の命を受けるが、間違えて伊勢亀山城の天守を解体してしまったというマヌケすぎる出来事が起こる。(本当なのか疑問視する声もある。)
寛永10年(1633)、前述の通り、幕府が家光宿泊に備えて修築。多門櫓もこの時に創建か。
寛永11年(1634)徳川家光、上洛の際に宿泊。
寛永13年(1636)本多俊次が城主に。3年の月日をかけて大改修を行う。
【城郭】
明治の廃城令によりほとんどの建築物が壊され、多門櫓、土塁などがわずかに残る。
(多門櫓と石垣)
本丸東南の隅に位置する。石垣は野面積み。(この石垣が=天守台だったかは不明。)三重県で唯一、原位置に残る城郭建築物で三県県史跡。
平成19年(2007)三重県中部地震で石垣の一部が崩落。しかし崩落したのは昭和47年に台風被害の補修のため新たに積まれた部分だけで、古い石垣に被害はなかった。
平成20~23年(2008~11)に、崩落個所を江戸時代の姿である土居に変えて復元。(崩落個所はちょうど石垣と土居の境目部分だった。)
平成21~25年(2009~13)には多門櫓を建築当初の姿にするため、板壁を白い漆喰壁にするなど整備を行う。(平成の大修理)
(二之丸北帯曲輪と埋門跡)
平成16年(2004)に復原整備された。(亀山西小学校の北側)