久居陣屋

 三重県津市

【歴史】

慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治より津に入り、津藩の初代藩主となる。伊賀10万、安濃・一志で10万、さらに伊予越智郡で2万、その後、鈴鹿、安芸、三重、渡会郡も加わり、高虎は32万石を超える大大名となった。

寛永7年(1630)高虎死去。 嫡男の藤堂高次が2代藩主となる。

寛文9年(1669)高次が隠居。次いで子の藤堂高久が3代藩主となると同時に分藩し、高久の弟の藤堂高通(たかみち)を支藩(分家)の藩主とする。

高通は中心に御殿を置いた陣屋を建て、寛文11年(1671)永久鎮居の願いをこめて久居と命名し、初代久居藩主となる。

(元々は本格的な近世城郭を建てる予定だったようだが、幕府の許可が下りず陣屋となったよう。)

 

以後、16代に渡り明治維新まで続く中で、4、5、7、12代の久居藩主は、久居藩主を経て宗家である津藩の藩主を継いでおり、その分家としての役割を果たしてきた。

2006年、平成の大合併の中、津市と久居市は再び一つの街となった。

跡継ぎを絶やさず、家の存続のため分家し、平成の世では人口減少、経済の空洞化が進む地方都市の行政のスリム化などのため合併。

生き残るために分かれた兄弟が300年の時をへて、生き残るために再び一つになったと思うと感慨深いものがある。

 

【遺構】

久居インターの南、雲出川の北に位置し、野辺野と呼ばれた高台に築かれた。現在は高通児童公園に大正時代に作られた石碑が残る。

記念碑には歴代藩主の功績など、久居藩の歴史が刻まれている。

(案内板のQRコードから訳文が読める。)

中心となった御殿は、久居中学校の運動場あたりで、その北から東へ、西鷹跡町(にしたかとまち)から東鷹跡町あたり(久居アルスプラザ、久居郵便局あたり)まで武家屋敷が広がっていた。

現在は市街地化し、その面影はまったく感じられないが、高通児童公園、久居中学校の南に堀跡が排水路として残る。