雲林院城(うじい)

    三重県津市

【歴史】

雲林院氏の起こり(長野工藤氏の分家)  「勢州四家記」「勢州軍記」

1193年、日本三大仇討ちの1つである曾我兄弟の仇討ちで討たれた鎌倉幕府の御家人工藤祐経(すけつね)の三男、工藤祐長(すけなが)が伊勢平氏討伐のため、伊勢国の長野(津市長野)の地を給わり地頭となって安濃郡、奄芸郡を治める。

祐長の子、工藤祐政(すけまさ)が長野姓を名乗ったのが長野氏の始まりとされる。(他の長野姓と区別するため長野工藤氏とも言われる。)

 

祐政の子で長野氏2代当主となる長野祐藤(すけふじ)は、文永11年(1274)、長野の地に長野城を築城。

  (※祐政と祐藤が混同された記述や史料が多い。)

 

祐藤の長男、長野祐房(すけふさ)が長野家3代当主に。

祐藤の次男、雲林院祐高が元徳3年(1331)に分家し、雲林院家を興す

この時に雲林院城も築城されたか。

祐藤の三男、細野祐宗が分家し、細野家を興す。

 

雲林院氏、細野氏は草生氏、家所氏らとともに長野氏の有力一族となる。(中でも雲林院氏は特に格式が高かったよう。)

祐高以後、雲林院氏は11~12代に渡り続いたと言うが、史料が乏しく歴代当主については不明な点が多い。

 

室町時代

1414年、伊勢北畠氏3代目北畠満雅が明徳の和約の履行を幕府に求めて関氏らと挙兵。

これに対抗するため長野氏とともに雲林院氏も幕府方として1414年に関氏が籠った拝野城(津市久居戸木町羽野のあたりか)を攻めた。

1428年の北畠満雅の再度の乱にも幕府方として参戦し岩田川の戦いで満雅を破っている。

その後は1467年応仁の乱の相国寺の戦いに参加した記録などが残るが、以後、戦国後期の信長の伊勢侵攻までその動向を示す史料がない。

 

信長の伊勢侵攻以降

永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻を受け、長野家16代当主長野具藤(ともふじ)は信長の弟の織田信包を養嗣子(当主)として受け入れることで和睦。

(※具藤は、北畠具教の次男。永禄元年(1558)、長年に渡り北畠家と争ってきた長野氏は具藤を当主として受け入れることで和睦。北畠氏の支配下に入っていた。)

 

当時の雲林院家の当主、雲林院祐基(すけもと)も信包に従うことに。

(※祐基は、長野家14代当主、長野稙藤(たねふじ)の次男。)

 

その後、祐基は信包と対立。天正8年(1580)子の祐光とともに追放され、城は廃されたとされる。

祐基は、娘婿が信長の側近矢部家定であったので、そのつてを頼り、信長の直臣として召し抱えられ、天正10年(1582)5月の信長上洛(翌月に本能寺の変)の際に、安土城の留守居役の中に「雲林院出羽守(でわのかみ)」の名があり(信長公記)、これが祐基のことと思われる。

本能寺後は秀吉に仕えたとされる。

 

祐基の子、雲林院祐光(兵部少輔?、兵部大輔?)は滝川一益を頼り、一益の娘婿となっている。

 

【雲林院光秀】 

祐基と同時代に雲林院城主だったという、雲林院光秀雲林院松軒(しょうけん) 通称:弥四郎、出羽守)という人物がいる。

剣豪 

光秀は、かの塚原卜伝より新当流(神道流)を伝授された剣豪で、天文23年(1554)に卜伝が発行した極意皆伝書(現存)が残る唯一の人物。

柳生宗矩からも「足利義輝や北畠具教らとともに天下に5人といない卜伝流の兵法者」と言われている。

 

●雲林院城主?

光秀は信長の伊勢侵攻に対して長野氏とともに抗うが敗北、一時隠棲するが、その後、信長に士官し、信長の三男織田信孝の兵法指南役となったとされる。(当時、信孝は鈴鹿の神戸家の当主となっていた。)

経歴が祐基と重なる部分があるため、祐基=光秀の可能性もあり?

 

●呼び名

光秀も祐基と同じく「出羽守」を称したとされるので、「信長公家」に書かれた安土城の居留守役「雲林院出羽守」も祐基ではなく光秀の可能性も。

疋田景兼(ひきた かげとも 上泉信綱の弟子)から光秀宛ての起請文の宛名は「雲林院弥四郎入道」となっており、光秀が「弥四郎」を称していたことがわかる。

光秀が「出羽守」を本当に称していたかは疑義が残る。

 

●塚原卜伝との関係

1554年、光秀、卜伝より極意皆伝書を給わる。

1555年、雲林院家の主家である長野氏14代当主、長野稙藤(たねふじ 祐基の父)は北畠具教の次男を長野家の養嗣子として受け入れることで北畠氏の支配下に入る。

 

塚原卜伝より教え受けた者のなかで奥義「一之太刀」を伝授されたとされるのが、足利義輝や北畠具教。

何度も諸国修行の旅に出ている卜伝。1556年からも旅にでたそうで、義輝や具教に指導したのは1557年頃のよう。

 

長野家分家の雲林院氏の将(光秀、あるいは祐基)に卜伝が指導→長野氏が北畠の支配下に入る→今度は北畠の当主、具教を指導。

時系列的な齟齬はないように思える。

 

●=祐基?

私見ではあるが、別人ではないかと思われる。

光秀は雲林院氏出自の武人・剣豪だが、「出羽守を称していた」「雲林院城主だった」という情報は、後世の人が同時代の祐基と混同した事によるものではないか。

 

●光秀の子、 光成

光秀の子、雲林院弥四郎光成もまた剣豪として知られる。

天正9年(1581)~寛文9年(1669)

父と同じく「弥四郎」の号を名乗り、新当流を受け継ぎ、さらに新陰流の皆伝を受けた剣豪。

大和郡山城の松平忠明(城主期間:元和5年(1620)~寛永16年(1639))に仕える。

その後、豊前小倉藩の細川忠利(忠興の二男)の兵法新指南役として仕える。

寛永9年(1632)忠利が肥後熊本藩54万石に加増・移封されると、それい従い熊本でも忠利に仕える。

忠利の父、忠興にも兵法を披露し絶賛されている。

忠利から再三士官するように勧められるが、断り続け最後まで客分として熊本にとどまった。

忠利が柳生宗矩に光成について尋ねた事があり、それに対する宗矩の返書が残っている。

「弥四郎は、伊勢の雲林院氏に連なる由緒ある人物。親(光秀)は塚原卜伝の弟子。卜伝の弟子は覚源院様(足利義昭の法号、光源院の誤記)と伊勢国司(北畠具教)、そしてこの親の五、六人ほどしかおらず、弥四郎はそのすべてを伝授されている。槍の腕前は当代随一。」と記されている。

 

(宮本武蔵、最後の決闘相手?)

弥四郎光成が、宮本武蔵最後の試合相手とする史料がある。

武蔵が寛永17年(1640)細川忠利に客分として熊本に招かれたのは事実。

この時期、弥四郎光成も客分として熊本におり、忠利の求めに応じ両者が木刀で試合。三度の立ち合いで、光成の技はことごとく武蔵に封じられたとされる。

これは武蔵没後100年後に書かれた武蔵の伝記「二点記」によるもの。試合について書かれた一次資料は見つかっておらず、雲林院も氏井と誤記されていたことから信憑性が疑われる。

しかし「同時期、同じ地に2人の剣豪ありて」となれば、戦ったと思いたくなるのが人の性。完全否定もできないだろう。

 

戦国から江戸へという難しい時代、細川忠興の後継者として外様ながら徳川家との関係を深め細川家を大名家として存続せたほどの人物である忠利が、還暦前後の老剣士たちに「試合みせてよ」なんて野暮過ぎることを言ったとも思えないのだが。

 

この弥四郎光成が祐基の子、祐光と同一人物の可能性も?

にしても、父:光秀、子:光成って名前。剣豪に失礼だが、肝心な大勝負で負けそうな気がしてならない・・・

 

【城郭】

標高170メートルの山に築かれた山城。城の北から東側へと回り込むように安濃川が流れる。山頂を主郭とし、複数の尾根筋にそって郭(削平地)が段状に配されている。

 

城の北東に位置する林光寺の横から登城し、尾根筋を西へと登り主郭へと達し、主郭から北側へ降りて電力会社の鉄塔を通り、林道を下り河内渓谷側に出るのがオーソドックスなコース。

より深く見学する場合は、主郭から北東の美濃夜神社に伸びる尾根、また主郭の南から東へと伸びる尾根にも削平地や堀切が見られる。

 

(周辺)

美濃夜神社の寄進者の中に、雲林院の名があるそう。

美濃夜神社や林光寺の東側に雲林院氏の居館があったとされる。

季節によっては河内渓谷を散策しても気持ち良さそう。