渋見城

三重県津市

【歴史】

永禄年間(1558~70)、乙部・中川河原の主だった乙部兵庫頭藤政(おとべひょうごのかみふじまさ)が、信長の伊勢侵攻に備えて築城したとされる。

(信長侵攻に備えて、平地である乙部から丘陵である渋見に急ぎ築城したのなら、築城は1567、68前後か。)

永禄13年(1570)に、信長の弟で津城主となる織田信包に攻められ落城。藤政は家所に逃れた後に自害したとも、専修寺に入り出家したとも伝わる。

(織田軍の軍評定に参加していたする資料もあるので、織田軍に降っていた可能性も?)

 

「乙部氏」は南北朝時代の史料から名前が登場する。

その後、戦国時代には長野氏の被官(部下)となっていた。

乙部藤政にも、長野氏の通字である「藤」の字が使われていることから長野氏一族の血筋を受け入れていた可能性もあるか。

 

【城郭】

現在は宅地開発され渋見団地となり遺構は一切なく、渋見砦址公園に説明碑があるのみ。団地造成に先立ち、平成2~3年に発掘調査が行われる。5.5haの範囲に主郭を中心にいくつかの郭からなる輪郭式と思われる縄張り。

空堀の底から主郭までは18m以上あり、県下屈指の深さを誇った。

 

現在、津市中河原に乙部氏にゆかりのある潮音寺、子安山地蔵院がある。

・潮音寺の本尊である阿弥陀如来立像が乙部藤政の守護仏と伝わる。

・潮音寺のすぐそばにある子安地蔵院は、妻女の安産を祈願して乙部氏によって建てられと伝わる。