沢城

鈴鹿市飯野寺家町

【歴史】

神戸氏の興り

鎌倉時代前期の文永2年(1265)伊勢平氏の流れをくみ、執権北条家の被官だった関実忠(さねただ)が亀山市若山(亀山神社と池(しょうぶ園)を挟んだ北側)に築塁(亀山古城)したのが関氏の始まりと伝わる。

 

その後、数代に渡りその詳細は不明だが、関東から関に入り、関氏6代とされる関盛政が伊勢関氏の基盤を築く。

正平22年(1367)盛政は亀山城(亀山古城、若山城)を本家とし、息子たちを沢城、国府城、鹿伏兎城、峯城に分家し、関一党を形成。

 

盛政の長男、関盛澄が領地である神戸郷に沢城を築き、神戸氏を名乗ったのが神戸氏の始まり。

盛澄ー実重ー為盛ー具盛と、4代200年に渡り神戸氏の居城となる。

 

神戸氏の隆盛

神戸氏は関氏一族ではあるが、次第に北畠氏との結びつきを強めて勢力を拡大。

神戸氏3代為盛は北畠家から妻を迎えていたが男児に恵まれず、北畠氏6代、北畠材親の子盛を養子に迎え4代当主とする。

(具盛は、神戸家7代目で同姓同名の孫と区別するため楽三具盛と表記されることも。)

具盛は天文年間(1550年頃)に、居城を800メートルほど北東の神戸城に移し、北畠の力を背景に北勢でさらに勢力を拡大する。

5代長盛、6代利盛の頃には関氏や長野氏と並ぶ程の勢力となる。

 

信長の伊勢侵攻

永禄10年(1567)織田信長が滝川一益を先鋒とし北勢へ侵攻開始。

北勢四十八家を攻略。

永禄11年(1568)7代神戸具盛(祖父である4代具盛と同姓同名のため友盛と表記される事が多い。混同注意。)は信長の3男信孝(当時10歳)を 神戸家の養嗣子として受け入れることを条件に和睦。

信孝を冷遇したため、具盛は隠居状態に追いやられ、沢城がその隠居城となるが、元亀2年(1571)近江日野城に幽閉される。

元亀3年(1572)信孝が家督を継ぎ神戸家8代神戸信孝となる。(後に織田家に復帰)

天正10年(1582)本能寺の変の後には、近江日野城に追放されていた具盛(友盛)は許され国許に戻り沢城に住まう。

慶長5年(1600)具盛が死去。

 

【城郭】

中央道路沿いの南に位置し、遺構はなく、周囲は田んぼ、宅地、飲食店となっている。本丸跡と考えられる地に石碑と案内板が建つ。

沢の字が示す通り、沼沢地に作られた平城で、周囲より高まっていた場所に築かれたよう。

現在、水田用の用水路は見られるが、すぐ近くに川が流れていたわけではなさそう。(城から東の千代崎へと流れる金沢川の当時の流れは不明)

周囲には、城掛、城西、馬渡などの字名が残る。

 

【4代神戸具盛 こぼれ話】

4代具盛の末っ子は、高島氏の名跡を継ぎ高島政光と名乗る。

その子、高島政勝は、織田家により途絶えた神戸宗家を哀れみ、自分の子、高島政房を7代具盛(友盛)の養子とし、神戸政房と名乗らせる。

政房は蒲生氏郷に仕え、天正18年(1590)奥州仕置により氏郷に従い会津に入る。会津にて政房の子、神戸良政が誕生。その後、蒲生家とともに伊予松山へ移封。

蒲生家が後継者がいないため断絶となると、良政は父の故郷である伊勢松阪へ移住。そこで父から聞いた話や、現地での聞き取り調査をもとに、寛永12~13年(1612~13)頃「勢州軍記」を完成させる。

己が先祖が活躍した伊勢国の歴史を記した「勢州軍記」が中世伊勢史の貴重な資料となっている。