松坂城

 松阪市殿町

【歴史】

蒲生氏郷、松坂入り

本能寺の変以降、秀吉に従い、天正11年(1583)賤ケ岳の戦い、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いに参戦した蒲生氏郷。

その功が認められ天正12年(1584)、滋賀(近江国蒲生郡日野)より加増されて12万石の大名として松ヶ島城(松阪市松ヶ島)に入る。

松ヶ島城は当時、南伊勢を治める拠点となる城であったが、城下町が手狭ということもあり、すぐに内陸部の四五百森(よいほのもり)と呼ばれる標高38mの小高い丘の上に新しい城の築城を開始。

天正16年(1588)3重5階の天守を擁する新城(松坂城)完成。

この地を松坂と命名する。

(松ヶ島の「松」と、主君秀吉が築いた大坂の「坂」を取って命名されたと言われる。)

築城とともに参宮街道のルートも城の傍へと変更。

松ヶ島の商人、職人、寺社仏閣を移住させるだでなく伊勢大湊の廻船問屋や、自身の出身地である近江日野からも商人たちを呼んで楽市・楽座を実施。これが江戸時代に活躍する松坂商人の礎となった。

 

蒲生氏以後~関ケ原

氏郷は天正18年(1590)の小田原征伐などの功を認められ、同年の奥州仕置きにより会津へと移転。(後に加増され92万石の大大名となる。)

松坂城に居たのは2年間だけだった。

 

天正19年(1591)小田原征伐の功績を認められ、秀吉の家臣、服部一忠が松坂城主(3万5千石)となり、豊臣秀次配下の家臣とされる。

文禄4年(1595)秀次の失脚・切腹に連座する形で、一忠は領地を没収され切腹させられた。それに伴い、古田重勝が城主(3万4千石)となる。

慶長5年(1600)重勝は津城の富田信高伊勢上野城の分部光嘉らとともに家康の上杉征伐に参加するが、光成挙兵の報を受け、急ぎ松坂へと戻る。

富田、分部が籠城する津城に援軍を送るとともに、自信も松坂城に籠城し、西軍の鍋島勝茂らと対峙する。戦後、この功が認められ5万5千石へと加増された。

慶長11年(1606)古田重勝、死去。重勝の子(幼名:希代丸)が幼かった事から、弟の古田重治が家督を継ぐ。

 

紀州藩(和歌山藩)の藩領に

元和5年(1619)古田重治は岩見国(島根県)浜田城に転封。

同年、家康の十男、徳川頼宣が紀州藩主となると、松坂含む南伊勢(17万9千石)は紀州藩の藩領となり、当地を統括する城代(代官)が置かれた。

その後、明治まで紀州藩の伊勢支配の拠点となる。

正保元年(1644)に台風で天守が倒壊。以後、再建されておらず。

 

平成の松坂城石垣修復

1988年~2003年の16年に渡り、総事業費11億円を掛けて石垣の全面修復が行われた。

 

【城郭】

阪内川の南にある丘陵(四五百森)の北丘に建てられた平山城。

(南丘には神社。現在は松阪神社、本居宣長ノ宮)

石垣が非常に豊富な城跡。氏郷時代、江戸時代に補修されたものなど、時代によって異なる積み方の石垣を見られる。

本丸を中心に、二ノ丸、きたい丸、隠居丸の4つの曲輪からなる渦郭式。

 

(本丸)

上段、下段に分かれている。

上段の石垣、また上段にある天守台跡の石垣は氏郷時代の野面積みが残る。天守台跡には古墳時代の石棺の蓋(大、小2つ)が使われていて面白い。

隅櫓、また隅櫓をつなぐ多門櫓の跡が残る。

 

(二の丸)

本丸東側の二の丸には御殿が作られていた。(現在は藤棚や売店がある。)

二の丸や隠居丸には、打ち込みはぎ、算木積みの高石垣が残る。(江戸期に補修したものか)

 

(きたい丸)

本丸西側。古田重勝の子の幼名「希代丸」にちなんでつけられた。

現在は梅林がある。また、きたい丸から直接天守台に登れる階段がある。

 

(隠居丸)

本丸南側。宝蔵、米蔵など倉庫が置かれていた。

現在は本居宣長記念館に続く庭園になっている。(有料ゾーン)

 

北丘、南丘を三の丸が囲み、その外側に堀があった。

(現在の市民病院、工業高校、殿町中学が三の丸に当たる。その外側に堀跡が部分的に残る。)

 

(歴史民俗資料館)

表門近くに歴史民俗資料館がある。

元は明治45年(1912)に建てられた飯南郡図書館で、この建物自体が国の有形文化財。

1階は氏郷、松坂城、松坂木綿に関する展示。2階は小津安二郎記念館。

 

(御城番屋敷 ごじょうばんやしき)

裏門から伸びる石畳の道の両側に、美しい槇垣と武家屋敷が並ぶ。国の重要文化財の武家屋敷の中で最大規模で、実際に直系子孫が今も住んでいる。

文久3年(1863)に松坂城の警備を担当する紀州藩士20人とその家族のため建てられた屋敷。

(経緯)

その祖先は家康に仕えていた三河武士の横須賀党。

元和5年(1619)家康の十男、徳川頼宣が紀州藩主となり、松坂が紀州藩領となった時、横須賀党は頼宣の家臣として和歌山の田辺に居住。

紀州藩直属の家臣として、代々田辺城の安藤家を助けてきた。

時は流れ、安政2年(1855)突然、「横須賀党は安藤家の家臣である」との通達を受ける。(田辺与力騒動)

紀州藩の直臣(藩直属の家臣)であることに誇りを持っていた彼らは、これを拒否。藩士の身分を捨てて浪士となるが、その後も紀州藩復帰への嘆願を続け、文久3年(1863)に松坂城の御城番として復帰する。

その4年後には明治維新をむかえるが、団結力の強い彼は苗秀社という会社を組織。現在も合同会社として直系子孫で構成されている。

現在、松阪市が一戸を借り上げ、一般に公開している。

 

(周辺 豪商のまち松阪)

●周辺に、豪商のまち松阪に関する3つの館がある。

・原田二郎 旧宅(銀行家、慈善事業家) 全財産を投じて設立した慈善事業 積善会は今も残る。

・旧小津清左衛門家(紙問屋)現在も東京にて小津紙店(小津産業)として営業いている。

・旧長谷川治郎兵衛家(木綿問屋)一族の者が木綿問屋街である江戸の日本橋大伝馬町で創業し、複数の店を構える。

 

日本橋の大伝馬町の70軒あまりの木綿問屋の内6割が伊勢商人、中でも松坂商人が多かった。歌川広重が描いた「東都大伝馬街繁栄之図」にも長谷川家の店舗が5店舗も描かれている。さらに同画の奥には小津家の店舗も描かれている。

江戸や各地の店での利益が松坂の本家に送金されていたので、松阪に豪華で広大な屋敷が築かれていった。

 

●三井高利

三井財閥(三井家)の基盤を築いた家祖。

高利の祖先は近江の六角氏に仕えていた。(蒲生家も六角氏の家臣だった)

六角家が信長に敗れたことに伴い、一族は伊勢へ逃れ、現:松阪市の松ヶ島に落ち着く。そして氏郷による松坂城築城、街道変更、楽市楽座など城下町再編が進められていく。

松阪にある施設、豪商ポケットパークに建つ東屋は、かつての三井家の建物をイメージしたもの。

また東屋の前には三越伊勢丹より寄贈されたライオン像がある。

 

(祭り)

毎年秋に氏郷祭りが行われている。本丸で出陣式を行い、市民公募で選ばれた氏郷役らの大名行列が城から出て市内を練り歩く。

2022年11月3日の氏郷祭りでの出陣式、大名行列を観覧。

行列には氏郷以外に藤堂高虎、徳川家康、豊臣秀吉、織田信長などがいた。

氏郷の銀鯰尾兜がカッコいいい。