戸木城(へき)

 三重県津市

【歴史】

木造氏(きづくり)の興り

伊勢国司北畠家初代北畠顕能(あきよし)の三男、顕俊が正平21年(1366)に一志郡木造庄に拠点を置き築城(木造城)。木造御所を称し、木造家の祖となる。

 

北畠7代当主北畠晴具(はるとも)の子で、8代当主北畠具教(とものり)の弟である具政が分家である木造家を継いで木造家当主、木造具政(こづくりともまさ)となる。

天文23年(1554)具政が隠居所(戸木御所)として戸木城を築城。

 

戦国時代、信長の伊勢侵攻

永禄10年(1567)織田信長が滝川一益を先鋒とし北勢へ侵攻開始。

北勢四十八家を攻略。

永禄11年(1568)鈴鹿の神戸氏、津の長野氏が降り和睦。信長は神戸には三男の織田(神戸)信孝を、津には弟の織田信包を送り込む。

北勢、中勢を制した信長は、永禄12年(1569)南伊勢の北畠攻略に動く。

 

大河内城の戦い

北畠の当主北畠具教の実弟である木造具政は、当初は織田軍に対抗する姿勢を見せたが、永禄12年(1569)5月、織田側に寝返る。

以後、木造家は織田家に仕えることに。

滝川一益が具政の家臣柘植三郎左衛門保重と、木造家の出身で出家していた源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じて調略)

この際、北畠に人質として出されていた柘植保重の妻子(娘は9歳だったという)は雲出川南岸で磔にされた。

 

北畠具教は木造城を包囲し攻撃するが、8月になっても木造側は籠城戦で持ちこたえ、美濃の信長軍本隊が伊勢に向かって動きだしたため、大河内城へと引き決戦に備える。

信長は8月20日に総勢5~7万とも言われる大軍勢を率いて美濃から出陣。

8月23日木造城に着陣。木造軍も加わり、8千~1万の兵で構える大河内城攻めを開始する。

大河内城は落城せず、2か月を超える籠城戦の末、10月に和睦。北畠は信長の次男、茶筅丸(織田信雄)を次期当主として受け入れることに。

以後、柘植保重、滝川雄利、そして具政の子木造長政は信雄の家臣となり仕えていく。(長政は天正2年(1574)第三次長島侵攻に信雄に従い水軍として参戦している。)

 

本能寺以後~小牧・長久手の戦い

天正10年(1582)本能寺の変の後、一旦は協調関係にあった信雄と秀吉との間で緊張関係が続く中、信雄の家臣である津川義冬、岡田重孝、浅井長時の家老3人が秀吉側への寝返りを疑われ、天正12年(1584)3月、長島城に呼びだされた3人は信雄の命により暗殺された。

これにより信雄と秀吉の対立は決定的となり小牧・長久手の戦いが始まる。

 

信雄支配下の伊勢の各城は、秀吉の命により滝川一益、蒲生氏郷らの攻撃を受ける。信雄の家臣であった木造家も蒲生軍の攻撃を受ける。

天正12年(1584)木造長政は戸木城を改修、修復し籠城する。

 

戸木城籠城戦

津城主、織田上野介信包を総大将とし、氏郷は長野氏系の武将を率いて5月には戸木城の東にある牧城、川方城、北にある宮山城を攻略。

戸木城の周囲に砦を築き(城山城、また落とした宮山城も付城として利用)、四方を取り囲み持久戦となり、周辺各地で小競り合いが続く。

5月、美濃の加賀野井城攻めでも功をあげた氏郷は秀吉の命で松ヶ島城12万石の城主となり、6月に松ヶ島に着任。

9月、刈田夜合戦(菅瀬(須加瀬)合戦)

秋口になると兵糧確保のため戸木勢は月明かりを頼りに雲出川南岸域で稲刈りにのため城を出るようになり、須賀、曽原、小川、八太などで小規模な衝突があったよう。

菅瀬(須加瀬)での戦いでは、銃声を聞きつけた氏郷が打って出るが、兜に3発の銃弾を受けたという。

11月、秀吉と信雄が和睦。

長政は城を明け渡し、員弁郡に移り田辺城を築城し拠点とする。

その後、戸木城は籠城戦で氏郷の従者を討ち取るなど功を上げ津市庄田町に勢力を持った中川庄蔵が一時預かったが、慶長年間には廃城となったよう。

 

その後の木造氏

田辺城に拠点を移した戸木長政。

しかし、主である信雄が尾張から関東への移封を断ったことで秀吉の怒りを買い、天正18年(1590)に改易されてしまう。

長政は秀吉の命で、岐阜城を治める織田信秀(信長の孫、三法師)の配下となる。関ケ原の戦いに際しては、長政は秀信に東軍につくよう進言するも、信秀は西軍につき、福島正則、池田輝政らに攻められ落城。

その後、敵将であった福島正則の誘いを受けて仕えることに。慶長9年(1604)死去。

【城郭】

現在、戸木小学校となっており遺構はない。敷地内に石碑と案内板がある。雲出川北岸の段状台地に築かれている。

戸木小学校より北側にも高台が続く(北に行くほど高くなっていく)ので、城域の中心は現在の戸木小学校の北から旧奈良街道までの間にあったかもしれない。昭和52年、戸木小学校建設に伴い発掘調査が行われ溝跡、空堀跡が見つかっている。