上野城(伊勢上野城)

      三重県津市

【歴史】

室町時代

室町時代後期には存在し、天文17年(1548年)頃までには長野氏の分家で、現在の津市分部を本拠としていた分部(わけべ)氏が治めていたよう。

(この年に上野城に言及した書状が城の初見。)

 

信長の伊勢侵攻~信包と光嘉

永禄10年(1567)織田信長が滝川一益を先鋒とし北勢へ侵攻開始。

北勢四十八家を攻略。

永禄11年(1568)鈴鹿の神戸氏が降り和睦。

信長は三男の織田(神戸)信孝を神戸家の養嗣子(当主)として送り込む。

同年、長野氏も降る形で和睦。長野氏には弟の織田信包を養嗣子(当主)として送り込み、神戸家、長野家を支配下に置く。

 

安濃津城主の細野藤敦は織田家と抗戦する姿勢だったが、弟の分部光嘉や川北藤元は織田家に与する姿勢を取り、長野氏と織田家の和睦を取りなした。

(光嘉は長野家の16代当主長野具藤(ともふじ)に「藤敦は織田家に寝返った」と吹き込み、具藤に安濃津城を攻めさせ、藤敦はこれをやむなく撃退。その流れで織田家に降り、信包を受け入れることになったとされる。)

 

信包はまず伊勢国上野城(津市河芸町)に居城。

上野城を治めていた分部光嘉を普請役とし上野城の整備を進めると同時に、安濃津城も本格的な城へと改修を進める。

(当時、光嘉自身は中山城(津市栗真中山)に居城していたよう。)

東山麓の南北に細い街道を整備し町屋とし、これが後に伊勢街道の上野宿となる。城下町の守りを考え直角に曲げた鉤状の折れが何か所か見られる。

 

永禄12年(1569)、信包が織田姓に復帰し安濃津城主となる。

天正8年(1580)天守が完成し、信包が安濃津城に移ると上野城はその支城となり、分部光嘉が城代として入城

信包の時代、その部下として光嘉は天正9年(1581)第二次天正伊賀の乱、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの中での松ヶ島城への攻勢などで武功を上げた。

 

浅井三姉妹と上野城

天正元年(1573)に小谷城が信長によって落とされ浅井長政が討たれると、信長の妹で長政の妻であると、その子である茶々、初、江の三姉妹(当時、茶々4歳、初3歳、江0歳)は信包の元で保護され、伊勢上野城、次いで安濃城で暮らしたと伝わる。(7年を上野城で過ごし、天正8年(1580)に信包と共に安濃津城に移ったという。)

実際には信長の叔父にあたる織田信次の守山城で過ごしたようだが、上野城、安濃津城に来たことも?

※2011年の大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」放映時に、江ゆかりの地であることを全面的に押し出して町おこしにつなげようとした跡が、城址や案内資料のそこかしこから見て取れる。

 

本能寺以後~

信包は本能寺以後は秀吉にくみしていたが、文禄3年(1594)秀吉の命で丹波へ改易。代わりに、本能寺の変以降、秀吉に仕えていた側近の富田一白が津城5万石の城主として入城。

上野城の光嘉も本能寺後は秀吉に仕えていた。

秀吉より文禄4年(1595)に3000石を、慶長3年(1598)に5785石を加増され1万石あまりの大名となる。

慶長4年(1599)一白、死去。息子の富田信高が津城を継ぐ。

 

安濃津城の戦い(関ケ原)以後

1600年分部光嘉は富田信高とともに家康の上杉征伐に従軍していたが、西軍決起の報を受け信高とともに東軍に付く事を決める。

ともに従軍していた松坂城主の古田重勝と共に急遽帰国し西軍に備える。(信高の父、一白が石田三成とは不仲だったとされる。)

(帰国途中、伊勢湾を船で渡る際に、西軍である九鬼嘉隆に見つかるが、嘉隆と顔見知りだった信高が「西軍に付く」等、言いくるめて津城に帰ることに成功。)

(信高は間に合わず、安濃津城の戦いの時には津城に居なかったとする資料もある。)

 

伊賀方面から三重に迫る西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長曾我部盛親らが率いる3万の大軍勢。

分部光嘉は自力での防衛は難しいと判断して上野城を放棄。津城の信高に合流。さらに松坂城の古田重勝からの援軍も合流し、合わせて1700兵ほどで籠城。

慶長5年(1600)10月1日、安濃津城の戦いが始まる。信高、光嘉たちは奮戦するも多勢に無勢。3日間の籠城の後、降伏し開城。城や城下町も焼けてかなりの被害を受ける。

(光嘉は毛利家家臣の宍戸元継と一騎打ちをして共に重傷を負う。信高も戦場に出るが、敵に囲まれ危機一髪の所を美しい武者に助けられた。その武者は実は信高の妻だったという美談が伝わる。信高と夫人を描いた浮世絵が残る。)

 

富田信高、分部光嘉は一身田の専修寺へと退き高野山へと下ったが、関ケ原で東軍が勝利すると安濃津城での奮戦を家康に認められて、慶長6年(1601)信高は2万石の加増、光嘉は1万石加増され旧領を安堵される。

光嘉は2万石余の大名となり伊勢上野藩を立藩するが、安濃津城の戦いで負った傷が元で同年死去。(享年50歳)

実子の光勝が29歳で早世していたため、養子(孫)の分部光信が2代藩主となる。

光信は二条城、駿府城などの築城に普請。また慶長19~20年(1614~15)の二度の大阪の陣にも本多忠政(忠勝の子)の元で参戦し武功を上げる。

 

元和5年(1619)家康の十男の徳川順宣が紀州に入り紀伊和歌山藩の藩主となると、伊勢上野藩領や松坂など伊勢国内の17万9千石が和歌山藩領となり、光信は近江国高島2万石へ移封となり大溝藩を立藩。初代藩主となり、以後明治まで12代に渡り分部氏が治める。

【城郭】

崖と谷に囲まれた標高30メートルあまりの丘陵(本城山)に築かれた中世の城(館)。土塁や空堀の跡がある。現在は本城山青少年公園。

城域は東西250メートル、南北550メートルに及び、谷によって大きく北、中、南の3つのブロックに分かれる。

 

南ブロックが中心部で一番高い本丸(主郭)は土塁の上にあり、天守台と思われる跡が残る。(天守閣ではなく櫓のような建物が建っていたか。)

現在は展望台兼資料館が建てられ上野(河芸)の町、伊勢湾を望む。

本丸の東に一段下がった二の丸があり、公園になっている。

本丸東側(駐車場側)、二の丸南の孫六畑には武家屋敷があったか。

 

ブロックと谷を挟んだ中ブロックには南北に3つの郭が並び、土塁、土橋跡が残り、本城跡の見所となっているが竹やぶに覆われているため素人が分け入って跡を見い出すのはなかなか困難。

 

【円光寺】

中ブロックの北にある、三本の土塁が並ぶ畝堀と隔てられた北ブロックには分部家の菩提寺である円光寺が建つ。

(円光寺は光嘉が住んでいた栗真中山から現在の場所に移ったとされる。また分部光信が移った高島にも建立された。)

円光寺には分部一族の墓が並ぶ。(光嘉、光勝(実子)、万(正室)、光高(養父))またお堂の中にも光嘉に関する資料が展示されている。

津の七福神の内の一つでもある(弁財天)

 

【華林廟】

上野城の東、近鉄線路のすぐ脇(オートバックスの裏手)に分部光嘉の墓、華林廟(戒名にちなんだ名)がある。昭和19年(1944)に、分部家13代の分部光謙氏が祭祀を行い建てられた石柱。

こちらが光嘉の本来の墓で、円光寺のものは供養塔のようなものとのこと(円光寺にいた檀家らしきお婆さんん談)